ケアとか、支援とか。
誰かの言葉や態度から思いを受け取り、それを感じて取り込み、私の言葉にして外の世界に発信するとき、その「誰か」と私は人生の中でつながってしまいます。
エネルギーを持って私の発する何かになる。
その人の言葉や態度は私そのものになるばかりか、私の次の行動をつくり上げることになるのです。
ということは、私の将来をつくり上げるということでもあります。
大袈裟に言えば、私を生かしてしまう。そして殺しもする。
逆も然りで、その私の何らかによって、他の「誰か」の未来に大きな影響を与えてしまうこともまた確かです。
そのことは一方方向には起こらないということなのですよね。
他人から何かを受け取り、解釈し、何を発するかは私自身の力にかかっている。
けれどまたその一方で私は何もエネルギーを持たず止まっていることもできるのです。
「ケアする、ケアされる」「支援する、支援される」という言葉に対する私の違和感はこういったことから感じられるように思います。
最近、友人と「支援する、されるってなんだろうね」とメッセージで語り合ったことから考えていました。
この文章はすべて、完全に一個人としての考えです。
ケアされる側というのはとても微妙な立ち位置で、弱っていればいるほど楽なものだと思います。
だって病気なんだからと、多少のわがままを言っても許される感があるのです。
なりたくてなったわけじゃない病気に魂そのものを乗っ取られて弱々しくしていれば、それなりに優しくしてくれるのが人間というものだからです。
みんなして「あなたはこうだったものね」「本当はこうしたかったのよね」「ずっと頑張ってきたものね」なんて言ってくれちゃったりして。
優しくされているはずなのに、なぜかどんどん動けなくなっていく。
そんな状態は、すごく生ぬるくていろんなことからズルく逃げられて楽ではあるのだけど、実はものすごく居心地が悪い。
居心地がいいと感じるのは、向き合わなければならない現実なしにただ優しさだけを与えられるユートピア的状況についてなのだと思います。
でもそれってなんか葬式の後の会話みたい。
生きているのに、死んだ人の回想をしてるみたい。
受け手に全くエネルギーが感じられない。
あぁ、我ながらとんでもないことを書いているなと自覚しています。
伝えるということは誠に難しいですね。
もちろん、病に侵された人に「エネルギーを出せ」なんて言いたいわけじゃないのです。
そう取られても仕方ないよな、なんて思いながらも誤解を怖れずに書くのなら、そんな状況って
「生きてるのに、死んでるみたいだ」
と思わずにいられないのです。
『私はこう考えるよ。こんな状況の中で、こんな風に感じるよ。もっとこう生きたい。こう在りたい。』
そんな思いを遠回しにすることなくエネルギーのあるまま発して人とぶつかり、こじれ、悩み、傷ついて不安になり、安定させたくてもがく。探って試して失敗して、直球でぶつかってまた違って肩を落とし、相手との距離感を自分で作り上げて行く。
その姿、その様子そのものが「生きる」ことなんじゃないかと思うのです。
もちろんケアは必要で、痛い部分に手当てが必要です。
でも「手を当てる」ことでいい。手の温度が感じられる、そのことだけでいい。
技術的な医療ケアとかそういうことをいうと少し論点がズレますが、技術を提供する人そのものの温度はそうあって欲しい。そう言いたいのです。
「ケアする」とはケアをされる側が感じた手の温度を、ケアする側に「あたたかいな、楽になったよ」と返すことにあるとも思います。
その言葉によってケアする側が「あぁ手当てして良かったなぁ」と感じること。
ケアする側にも関わらず、この報われる感覚の中に「ケアされた感」があり、その体験をまた別のケアしたい相手にどう向けようかと考える経験値としていく。
ケアをされる側がいることによってケアする側の人間の明日をつくっていく。
そしてその明日が、また他のケアされたい誰かの明日につながっていく。
そんなことだと思ったのです。
よって、ケアすること、されることは両立しており、双方に重なり合って、シンクロした部分から可能性を無限に生み出していくことなんじゃないかと思ったのです。
支援する、されるなどの似たような言葉も全てそうなのだと思います。
友人との会話と今日の読書によって、そんなことを強く感じた夏の夜でした。