他愛ない話を延々と

メンタル弱めな30代の果てしない戯言です

「らしくいる」ことを楽しんで選ぶ

女であるということ。女らしくいるということ。

電車に乗ると絶え間なく「毛を抜け、ツルピカになれ」「痩せろ」「輝け」とメッセージを押し付けられる。

生活費がいっぱいいっぱいだから自炊をしているだけなのに「将来旦那さんになる人は幸せですねぇ」などと言われることもしばしばだ。

女性なんだからヒールやスカート履かないの?もったいないなぁ。とか

女の人なんだから髪長いほうがいいんじゃない?とか

肉じゃが得意?これ裾上げしといて。結婚したら苗字は〇〇さんなんだね〜。などなど…

女であるというだけで何か女の役割が前提で決定されていて投げかけられる言葉が多々ある。

(上記はすべて私が言われたことではなく通常女性が言われがちであろう言葉を並べてみました)

 

男であること。男らしくいること。

男たるもの、などと言われ涙を流したり感情を出したりすることを抑えつけられる風潮。

働くということ、稼ぐということを性別役割で自然に任される文化。

働くというレースにおいて勝たなければいけないプレッシャー。妻、子ども、家、車というトロフィーの数々を手に入れ家族を養い続けなければならない圧。

(通常男の人が受けているだろう無言のプレッシャーなどを書いてみましたがこれ以外にもたくさんあるのでしょう。)

 

かといって、古風な女性らしさを女性が、伝統的な男性らしさを男性が守っていくことを否定するわけでもない。

古い伝統や価値観の中に素晴らしいものもたくさんある。

女性男性の問題だけではないだろう。社会人らしくとかもそうだし、子供らしくとか、大人らしくとかも。

障害者は障害者らしく、貧乏人は貧乏人らしくなどもよく聞く不快なフレーズだ。

それを「自らの意思で」取捨選択できているかというところにポイントがあるのだと思う。

不本意ながらその立場にいる人もいれば、本意でそうあるけれどもっと色々世界を広げて経験したい人だっている。

他人からの「こうあれ」と指図めいたメッセージをそのまま正解として受け取るのではなく、自分がそれを良いと思って選び、楽しんで行えているか。私はそこにフォーカスし続けたい。

そして自分自身もまた、相手を相手のままに見てその姿を認められているか。

きっとできていないことが多いのだろう。そう自戒し続けなければいけないと思う。

その目線はきっとどこかしらにある自分のコンプレックスへの反映になのだから。

自分自身に理想を持つことは素晴らしいことである。しかし、その理想に縛られていないだろうか。コンプレックスへの刺激からくる自分や物事の改善は基本的に苦しい。

理想を求めて自分自身を高めていくことは本来のびのびとしているものだと思う。

まだできる、もっとやれる、だから楽しいという気持ちになるようなものだ。

やっぱり自由を失っちゃダメなのだ。

人生は一度なんだから、誰かがこう言ったからとか今までみんなこうしてきたからとかではなく、「自分がこうしたいから」で選んで行こう。決めていくのは自分でいい。

私ってなんどもこういうことを書いてるな。でも本当にそうなのだ。

枠に当てはまらなくてもいい。多くの人が思う枠からはみ出すとそれなりに生きづらくはあるけれど、その分の喜びは必ず存在する。そこに気付くことは本当に難しいが、その分気付けた時には自分の中に限りない可能性を感じることができる。少なくとも私はそうだ。

私はそのおかげで女性の枠から飛び出し、あちらこちらと根無し草のように性別を彷徨う状態をこころから楽しんでいる。縛られないというのは本当に楽だ。もちろん、自分の性別に何の違和もない方はその状態をこころから楽しんで欲しいと思う。

外側の世界から色々をあれこれ言われて不快に思うことも多いけれど、私は今の私の状態に概ね満足だ。悪くない。いや、かなりいい人生がここにある。

なんどでも言う。人生は自分が選び、決めていい。