信頼するということ
ここのところ人に腹が立って仕方がない。
なんでそんなことをするのだろうとか、そんな言い方するんだ…とか思ってがっかりすることが多かったです。
口を開けばその人の欠点ばかりが浮かんできて、なんでそんな要素がその人にあるのか分析し始めたり、信頼する気持ちをすっかり失ってしまったり。
怒りにとらわれると途端に負のループに入ってしまう。
信頼してほしいと思うのはエゴなんだろうと思います。
私を信頼するかどうかはその人次第で、その人の自由の中にあるのだと自分で自分に言い聞かせなくちゃ。
私はあなたのとてもすごいところをたくさん知っているよとなんども伝えてきたけど、
やっぱり私を信頼しきるにはまだ怖いのかなぁと思ったり。
いろんな背景を知ってるからこそ、思いとは裏腹な行動をとって人を傷つけて強がる人が本当は一番苦しいことを知っています。私もまたその一人だったから尚更。
大切なのは、信頼してもらうことじゃない。自分が信頼しているか、ということ。
信用することと信頼することは違います。
信用は「こういうことがあったから大丈夫」と根拠や過去の経験からの理屈などがあって信じられるもの。
信頼とは、無条件のもとにあって無防備に相手に自分ごとゆだねるような気持ち。
したがって信頼の上にしか信用は成り立たないのだと思います。
だから愛は信頼とともにあるのだなとやっぱり思うのです。
人に対して全力で真摯に向き合うことはとてもいいことなんだけど、
私の気持ちを無視してまで自分の欲求を押し付けてくる人、私に対して経緯が感じられない行動を取る人からはいったん離れなくちゃとも思いました。
永遠に離れるわけじゃない。
またつながりたいからこそ、いったん離れなくては私は怒りに囚われ続けてよくないエネルギーをずっと消費しつづけてしまう。
怒りのエネルギーに満ちてる自分はとても弱さを感じます。
よく噛まずに食べ物をただただ無心に食べつづけたり、惰性にNetflixなんかみて夜更かしをして生活習慣がどんどん乱れたり。
そして心にどんどん余裕がなくなって、口を開けばその人の欠点ばかり言う自分になってしまうと気がつきました。
私はそんな風に生きると決めたわけじゃないのです。
だから今日は自分のこれまでのプロセスを振り返りました。
こんな風にがんばってきた自分なんだ、だからきっと大丈夫。
今起きているこの状況もまた、いつか愛しく振り返る自分がきっといるから、私は大丈夫。
あんなこともこんなこともがんばってきたじゃないか。
そう思ったらまた少し気持ちが「丈夫」な感じになってきて
大丈夫、きっとうまくやれるよという気がしました。
こんな自分の方がずっと好き。きっと私の周りのみんなもそう。
信頼と信用をまず自分に向けてあげたかった。そうしたらその次に周りにも自然に向けている自分がいる。
つまるところ、みんなが幸せでいるためには私が笑顔でいることが何より必要なんだよな、なんて思ったりするのです。
私が一番ご機嫌でいることを一番に喜んでくれる人たちと一緒にいたい。
大切な人たちにただただ幸せでいてほしいと、こころから願える自分がやっぱり好き。
信頼するとは、愛とは、そんな気持ちを言うんじゃないかな。