他愛ない話を延々と

メンタル弱めな30代の果てしない戯言です

自傷行為と過食嘔吐

自傷行為ってね、なんか不思議です。

「あっ!切りたい!」って思ったらもう手が刃物を握っちゃってるわけですね。

グッと力を入れてスッと皮膚に突き立てた刃先を引けばアラ不思議、

パカァ〜っと開いた傷口からにゅわーーーんと真っ赤な線が膨らんで、

一気にブワッと血液が噴き出すんですね。

 

同時に心がスーッと穏やかになって、なんていうんですかね。

邦画をずっとみていていきなり訪れるあの、風景のみのサイレントシーンのような。

脳みそが軽くなったような、深呼吸ができるようなそんな感じです。

 

そして段々に落ち着いた感じが笑えてきちゃって、ウフフっみたいになっちゃうんですね。

ちょっとクレイジーですよね。気味が悪い感じですよね。わかります。

自傷の不気味さは多分、自分を傷つける不可思議さだけにではなく、なんというかそのホラー感にもあるんだと思うんです。

自分に酔ってるだけじゃんという方もいるんでしょうが、ある意味では酔ってると思います。

麻薬と同じような強烈な効果が脳に現れているらしいのです。

そこらへんは国立精神・神経医療研究センターの松本俊彦先生の本をどうぞご参照ください。

麻薬や覚醒剤というとお酒よりも強烈に強いものでしょうから、酔ってるなんてレベルじゃないかもしれないですよね。

そんな快感を一度得てしまったら病みつきになって依存的になるのも仕方ない気がするのです。

 

過食嘔吐も同じような感じ。

私にとっては自傷的な役割が大きいです。

食べて食べて、その時は精神状態にも寄りますが無心に食べることでストレスを感じなくしてる場合もあるし、吐くために食べている(詰めている)場合もあるし。

美味しいと感じるのって最初の10分くらいですかねぇ。

 

トイレで吐く時の感覚は自傷の時の切った瞬間と少し似たような感じかなと思っています。

ちょっと違うのは、体も軽くなるし心もハッピー(吐き切った!と思えた時限定)。

かと思いきや、体はしんどすぎてヘロヘロ、もうやりたくない、神様助けて…みたいな日も。

 

終わった後のゴミの残骸を見るときが一番めんどくさいです。

あと私は毎回トイレ掃除をするのでそれも。

後の始末ってのはいつでも私を悩ませます。

事後処理のめんどくささよ…一旦へたり込んでしばらく休んでからだな、なんて思ってグダグダしているうちに窓から朝日が差し込み、小鳥がチュンチュン…みたいなこともよくあります。

 

どんだけ焦ってたんだって感じで散らかってるゴミ、我ながらオイオイ、頭狂ってるのかよって食べ方したんだろうなみたいな形跡を見るともはや本当にこれ自分がやったんだよななんて疑いたくなる時も。

 

あれ、なんでこんなこと書き始めたんだろ。

過食したくなっちゃうだろ!

これは自分への嫌気からかな。それとも自分を振り返りたかったのかな。

とにかくなんか書きたかったんだ。

そんな感じです。

 

 

ひとりぼっちの夜

耐えられない。寂しさに耐えられない。

ひとりというのは怖いです。

今夜はそれがとてもわかる気がします。

 

ひとりが好きな私ではあるけれど、ひとりでいることと、精神的にひとりになってしまうのとは違うよね。

今、たったひとりになってしまった気がして、全然大丈夫ではないのです。

 

こんな時に私は自傷過食嘔吐をしてその気持ちを感じないようにしていました。

もしかしたら今晩もそうするかもしれません。しないかもしれないけどね。

今はパソコンに打ち込むことで、この気持ちを見知らぬだれかが読んでくれるかもしれない、

その気持ちに何かを託してひたすら書いています。

できれば自分を傷つける行為はしたくないからな。

傷つけるしかなかったときもあったけど、そうしないでいることもできる。

そんな段階にはいるのだと思います。

今は、ただ無心に文字を打とう。思ったことを書こう。そうしてこの気持ちを乗り切ろう。

自分を傷つけずに、自分の味方でいてあげることは自分ひとりでもちゃんとできることだよ。

そしてそれを誰かが読んでくれるかもしれないよ。

 

だから

どういういきさつでかはわからないけど

こんな文章を読んでくださっているあなた、

そこにいてくれることに、ただありがとう。

 

誰かが読んでくれるかもしれないというその可能性が

今の私をひとりにさせないでいてくれるから。

やっぱり人はひとりでは生きていけなくて、

でもひとりでいても、こんな風にだれかとつながっているんじゃないかと信じることもできて、

信じる気持ちの先にこれを読んでくださっている誰かがいて。

 

みんなひとりぼっちなんですよね。

ひとりぼっちを誰もが自分の中に飼っているからこそ、ふとした人とのつながりや小さな優しさをだれかから欲しくなって、

得られないと耐えられないくらいに寂しがって、

そして懲りずにまた誰かとつながろうとするんですよね。

 

同じようなことをどこかで感じてる人もいるかもなぁなんて思ってみたり。

そんな風にしてなんとなく乗り切れる夜もあるのかなとおもいました。

うーん、やっぱりひとりも悪くないかもしれない。

いや、やっぱり好きかもな。

 

 

ケアとか、支援とか。

誰かの言葉や態度から思いを受け取り、それを感じて取り込み、私の言葉にして外の世界に発信するとき、その「誰か」と私は人生の中でつながってしまいます。

エネルギーを持って私の発する何かになる。

その人の言葉や態度は私そのものになるばかりか、私の次の行動をつくり上げることになるのです。

ということは、私の将来をつくり上げるということでもあります。

 

大袈裟に言えば、私を生かしてしまう。そして殺しもする。

逆も然りで、その私の何らかによって、他の「誰か」の未来に大きな影響を与えてしまうこともまた確かです。

 

そのことは一方方向には起こらないということなのですよね。

他人から何かを受け取り、解釈し、何を発するかは私自身の力にかかっている。

けれどまたその一方で私は何もエネルギーを持たず止まっていることもできるのです。

「ケアする、ケアされる」「支援する、支援される」という言葉に対する私の違和感はこういったことから感じられるように思います。

最近、友人と「支援する、されるってなんだろうね」とメッセージで語り合ったことから考えていました。

この文章はすべて、完全に一個人としての考えです。

 

ケアされる側というのはとても微妙な立ち位置で、弱っていればいるほど楽なものだと思います。

だって病気なんだからと、多少のわがままを言っても許される感があるのです。

なりたくてなったわけじゃない病気に魂そのものを乗っ取られて弱々しくしていれば、それなりに優しくしてくれるのが人間というものだからです。

みんなして「あなたはこうだったものね」「本当はこうしたかったのよね」「ずっと頑張ってきたものね」なんて言ってくれちゃったりして。

優しくされているはずなのに、なぜかどんどん動けなくなっていく。

そんな状態は、すごく生ぬるくていろんなことからズルく逃げられて楽ではあるのだけど、実はものすごく居心地が悪い。

居心地がいいと感じるのは、向き合わなければならない現実なしにただ優しさだけを与えられるユートピア的状況についてなのだと思います。

 

でもそれってなんか葬式の後の会話みたい。

生きているのに、死んだ人の回想をしてるみたい。

受け手に全くエネルギーが感じられない。

あぁ、我ながらとんでもないことを書いているなと自覚しています。

伝えるということは誠に難しいですね。

もちろん、病に侵された人に「エネルギーを出せ」なんて言いたいわけじゃないのです。

そう取られても仕方ないよな、なんて思いながらも誤解を怖れずに書くのなら、そんな状況って

「生きてるのに、死んでるみたいだ」

と思わずにいられないのです。

 

『私はこう考えるよ。こんな状況の中で、こんな風に感じるよ。もっとこう生きたい。こう在りたい。』

そんな思いを遠回しにすることなくエネルギーのあるまま発して人とぶつかり、こじれ、悩み、傷ついて不安になり、安定させたくてもがく。探って試して失敗して、直球でぶつかってまた違って肩を落とし、相手との距離感を自分で作り上げて行く。

その姿、その様子そのものが「生きる」ことなんじゃないかと思うのです。

もちろんケアは必要で、痛い部分に手当てが必要です。

でも「手を当てる」ことでいい。手の温度が感じられる、そのことだけでいい。

技術的な医療ケアとかそういうことをいうと少し論点がズレますが、技術を提供する人そのものの温度はそうあって欲しい。そう言いたいのです。

「ケアする」とはケアをされる側が感じた手の温度を、ケアする側に「あたたかいな、楽になったよ」と返すことにあるとも思います。

その言葉によってケアする側が「あぁ手当てして良かったなぁ」と感じること。

ケアする側にも関わらず、この報われる感覚の中に「ケアされた感」があり、その体験をまた別のケアしたい相手にどう向けようかと考える経験値としていく。

ケアをされる側がいることによってケアする側の人間の明日をつくっていく。

そしてその明日が、また他のケアされたい誰かの明日につながっていく。

そんなことだと思ったのです。

よって、ケアすること、されることは両立しており、双方に重なり合って、シンクロした部分から可能性を無限に生み出していくことなんじゃないかと思ったのです。

支援する、されるなどの似たような言葉も全てそうなのだと思います。

 

友人との会話と今日の読書によって、そんなことを強く感じた夏の夜でした。

 

 

いつか死ぬ日のためじゃない

いつか死ぬ日のために、今を考えることはしないと決めた。

「いつ死んでも悔いはない」という言葉は、私には未来にある「死」を念頭に「今」を生きているように捉えられる。

けれど、なんだかそれは違うと思った。

 

私は最大限に今を生きたい。

もちろんいつか死ぬのだ。

本当に明日かもしれない。この次の瞬間かもしれない。

または、50年後かもしれない。

 

「何のために」その行動をするのか。

それを明確にしていたい反面で、目的のために自分の中にあるこころの声をないがしろにしたくもないと思っている。

 

生きるために食べるのか。食べるために生きるのか。

食べるために働くのか。働くために食べるのか。

では、生きていくために働くのか。

 

苦しまずに生きることが良いことなのか、あるいは苦しんだからこそ見える喜びがあるのか。

その時その場、その体調で何もかもが変わって見える。

同じことを言っていても、眺める角度が変われば物事の捉え方は全てガラリと変わる。

生きることと死ぬことは紙一重とはよく言うけれど、ひとつ言えるなら、

「生きること」は「今」にできるが

「死ぬこと」は「今」にないということだ。

いや、死ぬときの「今」はいつか確実に体験するのだが、「今生きているこの瞬間」ではないのだ。

だから、「いつか死んだ時に後悔しないため」に「今」を生きることはしたくない。

「今」この時に、この自分であるだけだ。

 

今、とある本を読んでいて、まだ途中なのだけど強烈にそう思った。

なんども涙を流している。書いてくださった方に感謝の念が止まらない。

ありがとうございます。

今生きてこの本を読んでいるから、こころからそう思える。

「いつか死ぬときのために」そう思っている、とはとても思えない。

これが私にとっての「生きる」ということなのだ。

 

いつか死ぬときのためには、生きない。

 

生きているという「今」に、ただいる。

 

私の今の答えは、それだ。

 

 

危険を知らせる本能

人の事情は詳しく知らないとわからないと思ってきました。

けれど、深く考えなくても感じてしまった直感というものもある程度大切にしなくちゃいけないんじゃないかと思いました。

人間は確かに動物だから、「これは危険だ」と感じるものは本能が教えてくれると思うのです。

何か恐ろしいことが始まる気がして、視界がサッと遠のくというか、

そんな感じを受けた日でした。

 

理屈じゃなくて、何か、ヤバイ気がする。

 

私は本能で感じる「危険」をあまり見ないで生きてきたから、本当に危険な域に入った時にそれに気がつくセンサーが鈍くなってしまっているのかもしれないと思いました。

病気もそんな感じの延長線上だったんじゃないかな。

 

「これ以上は無理だよ、本当に危険だよ。」

そう感じているのに無視し続けた結果、私は心身共にズタボロになってしまったのだと思います。

同じことを繰り返したくはないものです。

 

その前に、危険だと私の何かが伝えているのなら、ちゃんと抜け出さなくちゃ。

環境を囲われて本当に抜け出せなくなる前に、そうしなくちゃいけないなと思いました。

 

 

 

ブログ更新後のメンヘラさんの詳細。

最近気付いたこと。

ブログ内容に病状を掘り下げたことを書くとしばらくメンがヘラって更新ができなくなりますね。弱い自分と文字で対面することになるわけですし、過去の体験も思い返しながら言語化ているわけですから今の自分には割とハードルが高いことなのだとわかりました。

更新できないことの理由はそれだけじゃないのですけど。

過去を思い返したりしながら現在の人間関係に何らかのズレが生じると、途端にガクッといきますね。

過去あんなつらい思いをしたのに今もこの人はこんなこと言ってくるのか…とか、

もう全部頭の中で過去のデータベースに照らし合わせた被害者意識が大活躍でして、それに振り回されます。相手の問題ではなく、1億%私の問題です。私の捉え方の問題なのですね。

それこそが「ザ・症状☆」って感じなんですけどね!

最近の傾向ではやはり過食嘔吐の症状が強いです。

そしてモヤモヤ、なんとなく脳内のどこかで線を引くように続いている、絶え間ないフラッシュバックというべきか。

過去の体験をボヤーっと思い返しながらなんとなく現実感が薄れていって、ああ何か脳に違う刺激を与えたい…この嫌な記憶を打ち消す刺激を…みたいな感じでとモソモソと甘いお菓子を食べ始めるとしばらくして、「あ、こりゃ始まるな」と俯瞰な自分がどこかで過食の決心をつけなければいけません。

「あー、これは吐かないと太る量(単に量的なものだけではなくて脂質量とか糖分とか色々です)。よっしゃ過食すっかぁ」みたいな。

するともうとにかく後は最後に吐くことしか考えてないのでなんでもいいから胃に食べ物を詰められるだけ詰めて、時間や体の感覚次第でトイレに向かい、ネガティブな感情や思考とともに食べたものを一気に吐くわけです。

すると翌日は一気に体力を奪われしばらく起き上がることができません。

真夏のこの天気ですから、吐いた後死んだように眠ると文字通り脱水症状と軽度の熱中症でコンコンと眠り続けてしまいます。眠剤が強烈なため、このまま起きずに熱中症で死んだりできたらラッキーなのに、ウフフ♪などと不謹慎なことも思ったりしています。

なので起きた時にはかなりのうつ状態です。起きてしまったことに対してというより、

なんだろう。回復してきたと思ったのにそうではない現実に対してなのかな。

ものすごく落ち込みますね。私、やっぱりガッツリ当事者なんだなぁっていう。

体もヘトヘトだしメンタルもボロボロなので本当にちょっとしたことでしばらく動けなくなるし、かといってネガティブの波に飲み込まれ続けるのも苦しいので色々と健全ちっくな活動もしてみるんですが、吐いた次の日は最近は本当に動けないことが多いです。

 

なので、症状が強く出たその日に心身ともにたっぷり休めていれば割と深夜にブログ更新などもできるんですが、休むというのもいかんせんなかなかうまくいかない日が多いもので。

体は横になっているものの、頭の中は「あれしなきゃ、これしなきゃ」でいっぱいで実は全然休めていないのです。

あの人に連絡返さなきゃな、しまった何かまた失礼しちゃったかな、あんなこと言っちゃったの、大丈夫だったかな。一人で盛り上がっちゃったこともあったな。

ああどう思われてるかな、あの時のあの行動バカみたい。やらなきゃよかったなとか、そんなことばかりです。

 

今晩はなんとなくでもブログ更新をしているので精神状態は最悪ではないのでしょう。

これは眠剤を飲んだ後に打っています。脳がぼーっとしてるため正直いって脈絡なく書いてるので、特にこれを訴えたいみたいなものはありません。

何が言いたいのかもよくわからないですね、思考能力ゼロ。

でも少なからず症状のことは書いてるから明日がどういう日になるのか楽しみにしたいところですね。実験的でもあります、楽しむ気持ちは少なからず残っているんだということに安心してみたり。

今日は鬱がひどく、友人たちに助けられた日でもあり、そして罪悪感もあった日でした。

それが生きるということなのかな。そう、生きているから苦しい日もある。

毎日が楽しくなければいけない、ということはないんだ。

つらい日もあるからこそ、発見もあって、次の自分への変化も訪れる。

つらいことなんか少ないほうがいいに決まってるけど、それがあるから気づけることも、

苦しんでいる自分から脱却するその瞬間を味わうこともできる。

全ての瞬間が、私の人生にとって何か意味のあることをを必ず教えてくれている。

もう少しだけ、粘ってみたい。何か物事をを頑張るとか成果をあげるとかそういうことではなくて、私は、

自分になにが起こっているのか、過去の体験が今の私を苦しくさせているなら、何が自分を楽にさせるのか。

その結果、自分とみんなが穏やかでいられることは何なのかを考えることだけは

手を抜かないでやっていきたいな。

まだまだ症状が出すぎるへっぽこ人間だけど、それでも私のその部分は忘れたくない。

もう少し、踏ん張ろう。

明日はどんな日かなぁー。きっといい日だよ。

そう信じてあげる

 

 

 

ひとりが好き

私はひとりが好きだ。

ひとりでいる時間を最高に楽しんで大切にしている。

パートナーがいたとしても、ひとりの時間を持ちたいと切望することが多い。

これといってやることがない時間なんか特に最高だ。

いろんな物事に対して物思いに耽ってみたり、二時間も三時間もただ雲の形を眺めてみたり。

ひたすらぼーっとしてその時に降りてくる考えや発想に自分自身でハッと気づくこともあるし、

この時間があるから私は生きることが楽しいんだなと思う。

 

あるネット記事で「結婚したくない理由」を挙げているものがあった。

「趣味の時間が大切だから」という理由に対して

”「たかが趣味なんかで…!」と思われるかもしれませんが…”

という一文があったのを読み、少なからず衝撃を受けた。

私にとっては「たかが結婚で趣味を今よりも大切にできなくなるかもしれないなら、結婚という仕組みにはほとんどメリットを感じられないなぁ」と思うほど、趣味は人生で最も大切なもののうちの一つなのだが、多くの人にとってはそうではないのかもしれない。

多くの考え方において、自分が多数派ではないことはわかっているつもりだが、それを実感するときはなんというか「ほほーう、マージかー!」みたいな、感心めいた感情が湧いてくることがある。

ネガティブなショックではないことは確かなんだけど、やっぱり自分って色々人と違うんだなあみたいな。改めて認識する感じと言うのでしょうか。

 

とにかく、ひとりという時間を愛しているのです。

ただただ、気楽で、自由で。この自分の状態に概ね満足していて、いろんな趣味もあって、大好きな友人ら、そして尊敬する人たちがいて。

誰かと常に一緒にいると、どうしても息が詰まってしまう。

私はきっとそういうタイプなのだと思います。

 

何もないことが幸せ、とか本気で思ってしまうタチなのです。

なんか、ぼーっとしていたい。ぼんやりした世界観が好き。

たったひとりで、その世界観を味わったり、後腐れなくパッと出かけてどこか外の世界を楽しんで、パッと家に帰って、たったひとりでその余韻に浸っていたい。

時々、息の合った人とそれをワッと共有して(電話でもいいし日中に会ってすぐ帰宅するのでもいい)、夜長にその雰囲気をまた自分ひとりで味わうのだ。

 

月が見える日なんかは最高だね。ああ、この時間を私がたったひとりで、誰にも邪魔されず今贅沢に過ごしていられるんだ。いつまででも月を見ていていい。

最高だ。

そんな感じなので私は今のところ兎にも角にも、人と暮らすということに魅力を感じられない。

ひとりでいるから、人を大切に大切に思える。

誰かといたら、月を見ながら大切な人たちの幸せをたっぷり願える夜が持てないかもしれない。というか、目の前にいる人のペースに合わせることが難しくてずっとウンウン唸っているかもしれない。

 

私はどうやらひとりでいると穏やかで、優しくて、丁寧で、人からの愛を感じて感謝したり生き生きと外の世界と心でつながって、そして幸せでいられるタイプのようです。

とても幸せで、贅沢な人間なのだなと思っています。

そんなことをひとりでじっくり思う、夏の夜なのでした。