他愛ない話を延々と

メンタル弱めな30代の果てしない戯言です

過食嘔吐と私。

5合炊いた米、

適当に作った豚こまとキャベツやもやしのおかず(と言えないおかず)

納豆、麺、ゲロ甘な菓子パン、安いスナック菓子、

甘いとしょっぱいのエンドレスループ

刺激が強すぎるのか、やたらと喉が乾くからキンキンに冷えたカフェオレを一気飲み。

このカフェオレが呼び水になってさらに喉が乾いて、エンドレスに飲む。

アイスが喉を通る時が気持ちいい。

 

焼きそばにはマヨネーズをたっぷりかけるし、

パン類は同じパッケージがいくつも並んでる。

 

過食嘔吐あるあるな、あの感じ。

よく見る写真の、あの感じ。

伸びる手が、ほんとに喉から出てるんじゃないかと思う、あの感じ。

待てない、待てない、もう全然咀嚼してない、もはや飲んでる。みたいなあの感じ。

だんだん脳がぼーっとしてきて、そうなると惰性で淡々と食べ物を噛み砕いていく感じ。

あー、そろそろ吐かなくちゃ、めんどくさいな。

これいってあれ詰めて、胃の頃合い見てトイレ行くか。

 

吐いてる時の、あの何もかもが自分から出ていく、あの感じ。

スッキリするのに頭は疲れて、体全体が一気にだるくなる。

心だけが、スッキリして安心する。「あぁよかった、全部出たな」って。

 

今晩も、このループ。

今この瞬間にどれくらいの人が同じようなことをしてるんだろう。

一回入ると抜け出すことが難しい、恐ろしくつらい病気だなと思う。

もうやだ、もうやだ。もうやりたくない。

誰か止めてよ。

こんなことがなくても安心していられる、「大丈夫」だと思える世界に住んでいたかった。

こんなことにすがるしかない私だけど、この私でもまずは「大丈夫」なんだって

自分に言い聞かせるところから始めたいな。

 

過食嘔吐なんかしなくても「大丈夫」になれるように。

今はすがるしかない「藁」だけど、藁に変わるものをいつか掴んでいられたらな。

何かを掴むというよりかは、私自身がしっかりした柱になれたらな。

 

死にたいくらいつらい気持ち

今の私はとても追い詰められていて、毎日が死にたい日々です。なんとかしようと思っていろんな人に連絡したり、いろんなところに電話したりしていたんですがダメで、
昨日は「実際に死のう」と思いました。
1回目は夜の9時に
2回目は12時を回ってから、当てもなく夜の道を徘徊しました。満月がとても綺麗で、今夜死のうと思いました。
家に帰ることができなくなって、死に場所を探して明け方まで歩いていました。
 
いわゆるカウンセリングというものを受けてみても「そのような今なんですね、それは苦しいですよね」みたいな感じに終わってしまい、
(そんなの当たり前ですよね)
私自身が弱いために事態を良くする様な何か具体的な行動を起こすことができません。
ひとえに私の勇気がないからなんですね。
 
昨日、死のうと思ったのですが、実行してみて及び腰になり失敗して、死ねませんでした。
まだ生きたいからなのか、勇気がないだけで死ねないのかはわかりません。
どちらも当てはまるかもしれません。
 
今日起きても全く気持ちは変わらなくて、むしろもっと追い詰められてる気がして
なんていうか症状が強すぎて、勝てない。
とてもつらいループに入ってしまいました。
フラッシュバックもひどいし、音も光も怖い。
過食嘔吐もひどい。
薬の量が変わったからとかそういうことじゃないのです。
恋愛や、人間関係がうまくいかないからとかでもないのです。
なんだか圧倒的に、つらいことを思い出す時間が長いのです。
そして、私の人生から大切な人がまたいなくなってしまったと感じるのです。
実際に誰かいなくなったわけじゃないのですけど。
それで毎日死ぬことを考えてしまいます。でも、生きなくては。とも思うので、
死にたい、でも生きなくちゃいけないのか、という葛藤もつらいのです。
死にたい夜をなんとか乗り切って朝になって何か絶望していて
それでも準備して、働きに行く。
でも私は不注意が多くてドジばかりやります。その上不器用で、人に迷惑をかけるばかり。
 
そんなところを「それでいいんだよ、それが、いいんだよ」と言ってくれる人もいます。
でも、「それではいけない」という人も、もちろんいます。
どちらの言葉も、それはそれで本当なのだと思います。
でもつらい時には、後者はキツく感じます。
甘えてるようですが、「あなたはそれではダメなんです」と言われると、やっぱりしんどいのです。
生きることがつらいときは、特に。
死にたい気持ちって目に見えないです。
表面的には元気そうに見えるあの人も、ギリギリのところで踏ん張ってるかもしれない。
だから私は自分の一言が誰かの最後の一押しになってしまわないように
「今のあなたじゃダメなんだ」なんて言いたくないなと思います。
「今のあなたは精一杯やってる。これがベストなんだよ。今のままで、これが一番いいよ。よくがんばってるね」っていつだって誰にだって言えるような人でありたい。
完璧には無理かもしれないけど、そんな人でありたいと思うことだけは諦めたくないなと思った日でした。
 
死にたい、という気持ちは本当は
「死にたいくらい、つらい気持ち」なのだと思います。
そんな風に思うほどあなたをつらくさせた何かが確かにあるのだから、「死にたい」と言いたくなって当然なんです。だから、死にたい気持ちを持っているあなたでも大丈夫。あなたは、ダメなんかじゃないよ。すごく立派だよ。
そんな風に言える人でいられたらなぁ。自分にも、誰にでも。
 

 

 

 

満月の夜です。

 

今日は満月だそうです。

なので夜空を見上げていました。

現状の私は、何かと辛いことが多くて何度もめげそうになっています。

でも月ってすごく不思議で、見上げているととても落ち着いてきます。

太陽より好きだなと思うことが多いです。

静かで、ずっと見ていてくれる感じがして、能天気さではなく思慮深さがあって、

そして私のことを何もかも見透かしているような、深くわかってくれているような雰囲気があるから。

太陽よりも寄り添っていてくれる感じがします。

もちろん太陽には太陽の良さがあって、私を元気にしてくれるのですけどね。

 

月がよい晩は昼間には考えられなかったようなことが、たくさん浮かんできます。

大切な人のこと、

大切にしていきたいこと、

今日一日に起こったことの意味、

これまでの人生で何気なくやってきたようなことが、

その場しのぎで選んできたようなことが、

全てつながりを持っていて、意味のあることだったんだと気づくような感じ。

やっぱり神秘的だしね。

 

次の満月はもう十五夜になるんですね。

早いなぁなんて思うけど、次の十五夜はぜひともお団子を食べたいな。

私の大切な人がいつも楽しみにしていたことだから。

そして今日、他の大切な友達も、同じことを言っていたからです。

 

今夜はざわざわするかなと思っていたけど

満月のおかげで少しだけ落ち着いていられるかなと思っています。

 

とりとめもない話でした。

差別とコンプレックス

自分がどうしても好きになれない人を思い浮かべて見ます。

どうしてその行動をゆるせないのか、なぜこんなに腹が立つんだろう?

 

多くの場合、それは自分自身のコンプレックスの裏返しなんですよね。

「あんな風にだけは絶対なりたくない!」と思うからこそ、その人に共感することを心が強烈に拒絶するんですね。

 

「あんな風にだけはなりたくない!」と思う気持ちの元をもっと辿っていくとどんな感じでしょうか。

 

「あんな風」になると、何か困ることが自分の身に起こるはずです。

例えば「貧乏にだけはなりたくない」と感じる人は、貧乏になったらとにかく困るからですよね。

お金がない恐怖とか将来どうなってしまうのかとか、とにかく怖いことだらけです。

 

「あんな風にすぐ感情的になる人になりたくない」、という場合は「自分の気持ちをコントロールできない」恐怖を持っているでしょうか。あるいは、感情的に振る舞うことをずっと抑制されてきて、少しでも感情的になったら誰かに否定された過去を持っているとか。

 

過去の体験や未来への不安からくるものが多いように思います。

 

「あんな風にはなりたくない」という気持ちは差別を生みます。

「その人にはこうあってほしい」という気持ちと似ていますから。

自分の思い通りでない相手を拒絶する気持ちです。

 

そしてそれは自分自身のコンプレックスの裏返しです。

コンプレックスは誰にでもあることなのでそれがいけないことだとは思わないけど、

私はそれを自覚していないといけないなと思っています。

コンプレックスや人を拒絶したい気持ちをすぐに手放すことは難しいけど、

そんな自分に自覚的でいようとする気持ちは忘れたくないな。

完璧には無理だけど、私はできればいろんなことを認められる人でありたいのです。

まだまだ遠いけど…。

 

 

 

摂食障害の症状

ここのところグダグダした非嘔吐過食が頻回にあり、流石にやばいなと思う時は吐くのですが全部吐ききってないため体重が増えています。

短期間で増えているのでほとんどが水分であることはわかっているのだけど、

やっぱり体の感覚がゆるせなくて嫌です。

 

トイレに行ったとき、椅子に座った時に感じるお腹の感じが嫌だなとか

太ももが大きくて嫌だなとか。

 

過食嘔吐をすると肌の血色が悪くなって薄紫の斑点みたいなのが浮かんで見えるときがあります。

長年隔たった栄養しか摂ってこなかったので、内臓もあんまりよろしくないのでしょう。

全体的に肌が黄色くなってる感じがします。白目も茶っぽいので肝臓あたりがイっちゃってるのかもしれません。

 

摂食障害はとにかく体へのダメージが大きいですよね。

慢性的に脱水症状だし、自然の摂理に逆らった行為をしてるわけなので健康にいいはずがありません。

でも、病気の症状によって命を守っているのも確かだと思います。

 

そうでもしないと崩れてしまう何かがあって、とか

吐き出せない心のモヤモヤを、とか

怒りを、とか

罪悪感をとか。

 

そして、満たされない何かをなんとか自分に与える行為でもあると思うのです。

摂食障害の症状は必要な時はどうしても必要です。

その期間は本当に人それぞれなんだと思います。

 

私にも今もまだ必要なときがいっぱいある。

うまく共存していかなくては、と思うときと

前よりは少しだけ、症状と距離を置けてるのかな…と思うときと

いろんなときがあります。

 

それもまた、かけがえのない私の一部として

お腹や太ももやその他の好きになれない体の一部と同じように、

好きになれなくても「私の一部だ」と思って大切に受け止めてあげることから取り組んで行こうと思います。

100%自分を好きになるなんてできっこないんだから。

完璧主義的に自分全部を好きになるんじゃなくて、

嫌いなところがあっても「大切な私」として認めてあげようと思います。

努力について

頑張っても結果につながらないとき。

今がどんなにダメだと思っても、この先が絶望じゃないと思えたらひとまず合格だと思いました。

この経験が「いつかの何か」につながるんじゃないかと思えればそれで。

 

自分に足りないところを埋めるための努力をするのではなく、

今の自分で充分で、これ以上はなくて、

だけど努力をしたらもっとプラスアルファの何かが得られるから

もっと新しいことをしたくなる。

がんばりたくなる。

何かを初めても時間の流れとともに気持ちが変わったり環境が変わったりして、

続けてきたことをやめたくなるときもある。

続ける理由から「たのしい」「好き」が薄れてきていたら、やめどきのサインなのかも。

 

やめることはものすごい勇気がいるけど、その分また好きなこともできる。

「せっかく頑張ってきたのにもったいない」という理由でなかなかやめられない事もあります。

やめないで様子をみる事もできるし、もういいかと思った時にはやめるというよりかは「手放す」イメージで自分から自由に離してあげることもできる。

自分に対する思い方が良いものであれば結局なんだっていいとおもいました。

やめても、やめなくても。

初志貫徹が偉いってわけじゃない。ずっと続けてることがすごいわけじゃない。

自分に対する自信が持続していくことの方が、よっぽど大事。

だから私はやめるプロでもありたいな。

我慢して耐えてがんばり続けるより、ゆるく気を張らずに楽しんで、いろんなことをするのもいいのかも。

人生はたったの一回だからね。楽しめる努力をしていきたいなと思います。

⑤摂食障害と私(自分に対する思い方)

2018年の年末、拒食と過食嘔吐でボロボロになって死にかけた体を自分で「持って行った」旅先で、私の摂食障害は大きな転換を迎える。

「持って行った」なんて表現したのは、私の体だなんて到底思えていなかったから。

長い間、自分の体を整えるべき器というか、人から評価されるための「物」だと思っていた。

だからあちらを矯正したりこちらを整えたり、そんな修正を無理にかけているうちに私の体と心は遠く離れてしまった。

そんな気持ちのまま旅先の自然に直に触れて、私は何かそういった色々が崩れるのを実感した。「命」そのものを足の裏で踏みしめて、お腹に何かがズンと伝わってきて、そのまま突き刺すように脳のてっぺんまで言いようのない感覚が走って、「あれっ、今、何かが死んで、でも私は今、まだ生きている」と思った。

とても不思議な感覚だった。

そして「ここからまた生きよう、今生まれたんだ」という妙な気持ちをずっと持っていた。

その結果まだ私は今ピンピン生きていて、生きるってなんて美しいことなんだろうと思う毎日を送っている。

「生きること」を経験している私自身が何より美しい。

 

そんなの内面の話じゃないかと思われるかもしれない。

そんな一瞬で変わるものかと思われるかもしれない。

 でもそう思えるまで、できないなりに着実に回復過程を頑張っていたのも事実なのだ。

 

内面でそう思うからこそ、外見を貶める自虐行為をする人を本当にかなしく思うし、他虐などもってのほかで私は到底容認できない。

人をイジってネタにする笑いをコミュニケーションの手段としてとっている人たちもいるのは知っているが、もはや文化圏が全く違う人、と思うくらいである。

そしてそのように振る舞うことを心のどこかで「不快だな」と思いながらも、相手を変えようとしないことを意識している。

その人はその人であり、私の役目はその人を変えることではないのだから。

 

私は私だけを生きていて、

自分をこころの底から美しいと思っている。

そのような内面を持つ自分で感じる外見は、傷があっても多少どこかいびつで不完全でも、

すべすべでなくてもスリムでなくても、凸があっても凹があっても全てが私の要素であって、

全ての要素が私の生きる「姿」なのだ。

この体でここまでやってきたのだから、絶対に私は美しい。

そう感じられるようになるまで、ずいぶんかかった。

私は決して回復することを諦めなかったし、その姿勢はいまでも絶対に忘れないでいようと思っている。

まだまだ不完全だし嫌いなところもたくさんある自分だけど、

そんな自分ごと請け負っている自分、というのかな。

とにかく私は一生懸命やってきたのだ。