①私と摂食障害の話。
摂食障害を患ってからどれくらいになるだろう。
少なくとも私が普通に食べられなくなったのは中学生の時からだ。
当時はとにかく忙しかった。
受験勉強、家族関係の悩み、学校でのいじめ。
私には選択肢がなかった。
いじめから逃れるためには誰も私を知らない学校に行く必要があった。
偏差値は妥協したくなかった。いじめられても登校し続け、学級や行事の委員、合唱のピアノ伴奏なども積極的に引き受け、どこまでも真面目だった。
その時唯一こころを許せる友達が一人いたのだが、他クラスの子だった。
休み時間に会いに行っては何もなくても大笑いしていた。本当に何もなくても。
箸が転んでもおかしい年頃だったのだ。
その時間だけが自分の救いだった。
私たちの共通の話題はダイエットだった。しかし私にとっては死活問題だった。痩せればいじめられなくて済む。いじめの加害者たちの主な手法は私の体型を笑い、蔑んで笑うものだったからだ。
しかしその友人関係を一番よく思わなかったのは母だった。
母は私に謙虚でしとやかな女であることを望んでいた。
男が支配的であるならば、女は追従的であることを体現している女性がまさに母だった。
そしてそれを私にも望んでいた。
しかし私の友達は180度反対の女の子。
中学生にして髪を染め(小学生で訪れたアムラーブームの後、モーニング娘。の後藤真希が金髪で鮮烈デビューした時代である)、大声で笑い、男子にも容赦なく言葉を発し、明るく快活に意見を言う子だった。
その子といると私に良い影響がないとおもったのだろう、A子ちゃんと遊ぶのはもうやめなさいと言われた。
私は途方に暮れていた。
学校では居場所がない。
家に帰ると非行に走った兄が母と衝突している。
兄はよくわからない仲間とつるんで薬をやっていた。盗みもしていたし私にもお金をたかった。
父は単身赴任で不在だった。
弟は末っ子気質で世渡りがうまかった。男というだけで免除される家事がたくさんあった。明らかに不平等だったし、私は母が私に何を求めているか知っていた。
女である役割を全うすること、母の理想の女になることだ。ある程度育ちが良いと思われるレベルの教養とピアノなどのお稽古事は、私のためではなくいつか男性に選ばれるための条件を揃えるためだけに与えられていた。
だから私がいくら野心を持ってもそこまで熱心にやることはない、と夢を持つたびに潰された。ピアノが得意で音大に行きたかったときも、物語や歌やダンスが好きでお芝居や舞台を学べる世界に行きたかったときも。教養や芸事は世間に、いつか嫁ぐ先の男性や家に印象が良いと思われるレベルまででいい。あんたの夢のためじゃない。
だから変な将来の夢なんか持たないでよね。そんなバカ言うんじゃないの。そういうのは「特別」な人たちだけでいいのよ。あんたはつつましく「普通」でいなさい。
そんなメッセージを受けながら私だけが家の重荷、母からのプレッシャーを一手に引き受けている感覚だった。
「お兄ちゃんのようになってごらん、あんなのうちの子じゃないからね。あんただけは絶対に失敗しない。失敗したらうちの子じゃない」
それが母の口癖だった。
同時に「あんたはまともじゃないね。なんでA子ちゃんなんかと遊ぶの。あの子とつるんで部活だってサボってるんでしょ。ろくな神経してないわよ。先生にバレてごらん、内心も全部取り消しだからね。今まで何のために頑張ってきたの。本当にまともじゃないわ。どうせ育てた私が悪いんだわ。悪かったわね」
こんなことを延々と言われ続けていた。
私はボロボロだった。
部活に出られないのは引退するまでは宿題が膨大な進学塾と両立していたら身が持たないからだ。
もともとゆるい運動部でで数名を除いてはほとんどみんなが適当に活動しているような部活動だったし、体力を温存しておきたかった。それとA子といじめや勉強や家のことを何も気にせずただ流行りの曲を歌って笑っていられる放課後は私にとって何より必要な時間だった。
なんとか塾に間に合う時刻に家に帰ったらかきこむようにして胃にご飯を流し込む。
15分で出なければ塾に間に合わない。今日の小テストまずいな。絶対受からないな。昨日宿題解けなかったしな。また居残りか。今夜は寝れるかな。
そんなことばかり考えていた。
でも幸い受験勉強に追われているといじめのことはその間だけ忘れていられた。
長いので続く。