他愛ない話を延々と

メンタル弱めな30代の果てしない戯言です

となりのトトロを解離性同一性障害的に観てみた。

となりのトトロを観ていてぼんやり思った感想があるので記しておこうと思う。

特に深く考えず単純にファンタジーとして鑑賞しても面白いのだが、今回はさつきとメイを一つの人格として捉えたりしながら観てみた。

もともと「となりのトトロ」公開前に宮崎駿監督が練っていたストーリーでは、昼間にクスノキの穴でトトロに出会う場面と雨のバス停でトトロに出会う設定の2つの場面があったそうで、どちらかを採用するか決めかねていたらしい。

そこで登場人物を姉妹にすることでさつきとメイの二人が生まれたとのことである。

姉妹設定であるから極端に性格が違くて当然なのだが、私はいつもさつきに注目してしまう。

あんな六年生はいないだろう。六年生といえばまだ12歳である。メイの面倒をよく見ていることは当然なのだが、挨拶の仕方、立ち振る舞い、仕草、表情の全てが12歳とは思えない大人びたものだ。

母親もそれをわかっており、家族がお見舞いにきたときにはメイより先に、さつきの髪を梳くという形をとって母子のコミュニケーションをとっている。

髪を梳くという行為は母子のかけがえのない時間の象徴のように思える。メイはわかりやすく母がいないことに対する不安、自分の我慢、努力をアピールするが、さつきはそれをしない。

自分がそれをすることによって母がどんな思いをするかわかっているのだ。母もまたそんなさつきの特性をわかっており、思うように甘えられないさつきに対し「あなたは母さん似だから」と言いながら身体的に触れることでさつきを安心させる。

子どもというのは大人の想像以上に親の気持ちを先読みしていると思う。今回の私の視点はさつきとメイは分離しただけの一つの人格として見たりしているので、メイが口にする駄々っ子は実は全てさつきの心の声を反映したものだと思って鑑賞して見た。もう泣けてくる。

さつき、もっとわがまま言っていいよ、我慢しなくていいんだよ、と言いたくなってくる。

さつきの中にもちゃんと抑えきれないメイの、イコール3、4歳の子どもの心は存在しているのだ。

雨降りのバス停でトトロが猫バスに乗るとき、さつきとメイに渡したどんぐりの実は、夢か現実かわからない中でぐんぐん育ち、大きな木になった。

あの木が象徴するものはなんだろう。トトロも、中トトロも小トトロも畑に撒いたままなかなか目を出さないどんぐりに対し、頭に玉のような汗をかいて念じるような動きをする。さつきとメイも同じように真似てみる。するとポンポンポンポン芽が出て成長し、やがて家を覆ってしまうかのような大木に成長するのだ。あのどんぐりの身から出た芽は、確実にさつきの「気持ち」の象徴だろう。トトロが「気持ち、出してみなよ」とバス停でそっと渡した種。それはやはり自分だけで発芽させることは難しかった。一旦表現しなくなると気持ちはなかなか芽を出さなくなるのだ。

今まで抑えてきた気持ち。母親との分離不安、病気なのだから仕方ないと頭でわかっていてもさみしくて仕方ない気持ち、本来なら母親がやってくれたであろうことを毎日自分がしなければいけない不満、妹をいつも気にかけなければならないストレス。姉というプレッシャー、母親不在の家にて家事炊事を回さなければならない女であるという我慢。メイのように周りを顧みず好き勝手にわがままを言いたいのをグッと堪える子どもの気持ち。

もっと子どもらしくいたい。

私は子どもなのだ、「お姉さんだから」じゃなく、一人の「12歳の草壁さつき」として、ただ子どもらしく無邪気に思うままに楽しみたい。

そんな思いが種として撒かれ、心の友達と一緒に念じてどんどん発芽して、ぐんぐん伸びて行き、今まで我慢していたことも頑張ってきたことも耐えてきたことも全て養分にして見たこともないような立派な大木になる。私、こんなに頑張ってきたんだなぁ。お父さんも誰も気づいてないけれど、私がずっと頑張ってきたことは、私が心で信じる友達が絶対に見ていて認めてくれてるんだ。そんな風に受け取れるシーンである。

そこでトトロが出したものは空飛ぶコマだ。

中トトロ、小トトロは躊躇なくトトロの胸に飛びつく。メイも同様だ。一人の子どもとして怖れることなくトトロの胸に飛びつくことができる様子を見てさつきはしばし躊躇する。

本来の私はあっちだ。でも、そうしてしまっていいんだろうか。心の赴くままに、欲望のままに我を忘れてしまってもいいの?私もそうしてみてもいいの?自制心も理性も忘れちゃってもいいの?そんな躊躇である。

トトロはものを言わないが、ゆっくりさつきを見やり、「いいんじゃない?」とも「来ないの?」とも取れる、何かを促すような目線でさつきを見下ろす。その瞬間、さつきの中に何かハッと光るものがあった。トトロと目があった瞬間、ついにさつきは「子どもが子どもらしくいる権利」を取り戻したのだ。ワッと表情が明るくなり、トトロの胸に思い切り飛び込んでしがみつく。お母さんにずっとそうしたかったように。その瞬間、トトロたちを乗せたコマは勢い良く上空へ舞い上がっていくのである。

テーマ曲が壮大に流れ、さつきの心の自由をめいっぱい表現するかのように風に乗ってどんどん思う方向へ飛んでいく。道も田も電線も何も障害にならない宙をのびのびと飛び、心の底からの喜びを声いっぱいに叫んで表現する。やった。さつきはついに子どもの心を取り戻したのだ。

大人になった今、ここが一番感動するシーンである。毎回涙が止まらない。

さつき、よく頑張ってきたね…子どもでいていいんだよ、という気持ちになり目頭が熱くなる。

 

その後、取り戻した子どもの心はプロセスとして母がいないことへの不安、葛藤、怒り、罪悪感を一層強く感じさせ、さつきの中の3歳の心であるメイと激しく対立したり、大人の前で母の死に対する不安から激しく泣くようになるなどかなり情緒不安定となる。これまで鉄壁のお姉さん顔で守ってきた何かは、子どもの心を取り戻した以上、もう我慢のできないものになったのだ。しかしそれが子どもだ。そしてその子どもの心は何歳になっても消えることなく誰の心にもあるものなのだ。それが一番自然な「心の声」なのだと思う。

これまで「デキるお姉ちゃん」としてやってきたさつきはその状態に不快さを覚えやがて耐えられなくなる。わがままで自由奔放なメイという人格を心から追い出すべくストーリー上、迷子にさせる。しかし母と不本意な形で分離した状態で心の中の三歳児を自ら分離させてしまうことは、さつきの心が耐えられなかった。だから必死にまた統合しようとメイを探し出し、心に住むトトロという不思議な友達の力をもう一度借りて、幼い自分の心を取り戻しに行く。

認めたくはないけどこれも私の一部なのだ。わがままで、自分本位で、勝手な私のもう1つの人格。本当はもっとしっかりしているはずの私は、この人格を突き放すと壊れてしまうかもしれない。やっぱり一緒にいよう。さつきは決意してメイの元へ向かい、統合する。そして父と母のいる病院へと向かう。

メイという子どもの心をを完全に受け入れた状態で親の元へ行くことに意味があるのだ。

1回目のお見舞いの時とは違う私で。両親と言葉は交わさないけれど、私は前よりもっと私らしくなった。だから、直接言葉は交わさない。もうしっかり者だけの私ではない。だから、お母さんやお父さんが「なんなんだろう?」と首を傾げるようなメッセージはあえて残していくよ。

私は面倒見のいい、手のかからないお姉さんなだけじゃない。どこかでは気にかけていて欲しい、ただの子どもだよ。だから、「一体なんだろう?」と思わせるような駆け引きじみたメッセージは置いていくから、お母さんお父さん、私のことをもっと気にかけて心配して構ってよ。あなたたちの子どもだから。

 

そんな終わり方に見えた。

ただの一個人の感想です。さつきは健気すぎるな。今回お父さんについてあまり触れられなかったのは、字数上残園である。もちろん他のキャラも。また折に触れてその時感じた感想を書こうと思う。大層長文な感想文になっちまったもんだなぁ。

 

おしまい。