⑤摂食障害と私(自分に対する思い方)
2018年の年末、拒食と過食嘔吐でボロボロになって死にかけた体を自分で「持って行った」旅先で、私の摂食障害は大きな転換を迎える。
「持って行った」なんて表現したのは、私の体だなんて到底思えていなかったから。
長い間、自分の体を整えるべき器というか、人から評価されるための「物」だと思っていた。
だからあちらを矯正したりこちらを整えたり、そんな修正を無理にかけているうちに私の体と心は遠く離れてしまった。
そんな気持ちのまま旅先の自然に直に触れて、私は何かそういった色々が崩れるのを実感した。「命」そのものを足の裏で踏みしめて、お腹に何かがズンと伝わってきて、そのまま突き刺すように脳のてっぺんまで言いようのない感覚が走って、「あれっ、今、何かが死んで、でも私は今、まだ生きている」と思った。
とても不思議な感覚だった。
そして「ここからまた生きよう、今生まれたんだ」という妙な気持ちをずっと持っていた。
その結果まだ私は今ピンピン生きていて、生きるってなんて美しいことなんだろうと思う毎日を送っている。
「生きること」を経験している私自身が何より美しい。
そんなの内面の話じゃないかと思われるかもしれない。
そんな一瞬で変わるものかと思われるかもしれない。
でもそう思えるまで、できないなりに着実に回復過程を頑張っていたのも事実なのだ。
内面でそう思うからこそ、外見を貶める自虐行為をする人を本当にかなしく思うし、他虐などもってのほかで私は到底容認できない。
人をイジってネタにする笑いをコミュニケーションの手段としてとっている人たちもいるのは知っているが、もはや文化圏が全く違う人、と思うくらいである。
そしてそのように振る舞うことを心のどこかで「不快だな」と思いながらも、相手を変えようとしないことを意識している。
その人はその人であり、私の役目はその人を変えることではないのだから。
私は私だけを生きていて、
自分をこころの底から美しいと思っている。
そのような内面を持つ自分で感じる外見は、傷があっても多少どこかいびつで不完全でも、
すべすべでなくてもスリムでなくても、凸があっても凹があっても全てが私の要素であって、
全ての要素が私の生きる「姿」なのだ。
この体でここまでやってきたのだから、絶対に私は美しい。
そう感じられるようになるまで、ずいぶんかかった。
私は決して回復することを諦めなかったし、その姿勢はいまでも絶対に忘れないでいようと思っている。
まだまだ不完全だし嫌いなところもたくさんある自分だけど、
そんな自分ごと請け負っている自分、というのかな。
とにかく私は一生懸命やってきたのだ。