他愛ない話を延々と

メンタル弱めな30代の果てしない戯言です

人の本質を見ようとすること

人と話している時、相手のことを何の決めつけも評価もせずに相手を受けとめているとその人の本質的なものが伝わってくることがある。

言っている言葉、話の内容、表に出ている態度などではなく、なんと言えばいいのかな、その人がこれまで頑張ってやってきた軌跡というか、その人の本質の愛を感じて聴こうという感じ。

 

そうするとどんな人と話していてもこころがじわっとしてきて、ふわっとあかりが灯ったような気持ちになる。

人のこころはこんなにあたたかかったんだなと実感する。

 

昨日は個人的に私が打ち込んでいる趣味の会のオンラインワークショップだった。

一日を通して「話を聴くこと」について自分の捉え方を深めていくのだけど、

昨日はまた新しい発見がたくさんあった。

 

私は基本的に人の本質はあたたかいと信じている。

そんなこと絶対に信じられない時もあったけど、「信じたい気持ち」を信じて続けてきた結果、今は割と信じる自分が当たり前のようになってきた。

時々難しいけれど。

人として合わない人も嫌いな人もいるけど、本質はみんなあたたかい。

少なくとも私の人生で出会った人の中でテロリスト級にひどい人はまだいない。

でもテロリストだって実は助けを求めているだけで、ただの極悪非道な人間なんかじゃないのだ。これ以上に打つ手がないから必死になって相手を攻撃している。追い詰められた被害者たちなのだ。私にもそんな感覚になる傷つき経験がたくさんある。

どんなに表に出ている行動がひどく見えてもその人なりの過去や事情、信じた価値観や正義感があってその行動をしている。間違っているかもしれないけどがむしゃらに頑張った結果がただそこにあるだけだ。

 

なぜその行動をするようになったのか。何がそうさせているのか。

 

その「事情」を見る視点をなくさなければ、人はもっとつながり合える気がする。

相手のことを理解できないから、不快だからなどの理由で排除するのではなく、わかり合いたいという気持ちを持つことなのだ。

みんなただ認められたいだけだ。私だって認められたい。どんなに考えが違ったとしても、「肯定されたい、人から受け容れてもらいたい」という、その点においてだけは私たち絶対につながっていられる。

だから世界は絶対に分断されていない。

 

私はつながりのある世界に自らつながっていきたいから、人のそのままの姿を受け容れて認めていくことを続けたい。

ありのままの、「現状の自分」を否定されない経験って、何にも変えがたいものだから。

その心地よさと自由は私自身が一番よく知っている。

だから私もその感覚をこれからも人に与え続けていくだけだ。

外側に見えているものだけじゃないものを見ようとすることだけでいい気がした。

世界が優しく見えたらそれでいいんじゃないかという気持ち。

そう思えることが自分の本質なんだな。だから例外なく自分の本質もあたたかい。

これが自己肯定感ってやつなのだと思う、