物事の捻くれた受け取り方は、傷つき体験の反映だ。
受け取り方と与える姿勢について考えた。
こちらがそんなつもりなく話していることでも相手が脳内で何か過去のデータベースと照らし合わせて聴いている場合、相手の脳内では全く別の話になってしまっていることがある。
そんなことが最近起きた。
私は単純にある人のいいところ、それにまつわるエピソードを話していたのだが相手には「遠回しに私に同じようなことをして欲しいと思ってるわけ?」と受け取られたようだ。
私はびっくりしてしまった。
人の話を聴くときに相手の話に集中するため、過去のデータベースと照合するような作業が脳内で始まったらまずそれを脇に置く、ということを意識して続けてきた成果か、最近はそのようなことが自然とできるようになっていた。
だから話し相手も無意識にそれをしているものだと思い込んでいた。
だから私の話をそんな風に受け取られたことが心外で、ひどく戸惑った。
話の受け取り方は千差万別だ。
千人いれば千通りの生きてきた人生や経験があり、その分の受け取り方があるのだ。
まずそれを認めなければならない。
相手の受け取り方が捻くれていればいるほど、その人はその分つらいことを経験してきたということだ。
「どうせこうに違いない、そう言いたいんでしょ。」と思ってしまうほどの何かを経験したはずなのだ。そのように言うことで予防線を張らずにはいられない何か。
そういった過去のつらい経験が、その人を守るためにそう反応させている。
そう思って相手の反応を改めて振り返ると、「なんでそうなっちゃうわけ!?」とは思わなくなる。むしろその人のこれまでの人生の道のりに尊敬の意すら生まれるのだ。
相手の反応は相手のものだ。そう受け取ってしまったのだから仕方がない。相手にとってはそうなのであり、必要なことなのだ。
しかしその反応すらこちらで受け取り方を変えることができる。
捻くれた返しをされた瞬間はこちらもいささか気分が悪くなったのだが今このようにこちらの受け取り方をさらに変えることで相手への目線が優しくなることが実感としてわかる。
みんながこんな風に受け取り方を変えてあたたかい目線を贈り合えたなら、世の中はもっと平和になるんじゃないか。
炎上騒ぎも、過剰な批判という名の非難も、受け取り方の婉曲で解釈が変わってしまっている結果だ。それだけみんな傷ついている人たちなのだ。
過去の体験を繰り返したくなくて「こういうことなんでしょ、許せない!」と言いながら「同じことがもう二度と自分に起こってほしくない!」と悲鳴をあげている人たちだ。
必死に予防線を張らなくても大丈夫だよ、安心だよとわかってもらうには、まず自分が安心していなくてはと思う。
そして安心だよというトーンを与え続けられる人でありたいなと思う。
受け取り上手は与え上手だと聞く。
こちらの受け取り方を変えると相手への目線があたたかいものに変化する。
それは相手への感情を和らげるものになるし、尊敬すら芽生えているのだからやはり「与える姿勢」なのだろうと思う。
みんながみんな、違った事情を抱えて生きている。
その事情に思いを馳せたとき、人は優しくなれる。
私は今、こんな風に考えられる機会を与えてくれた相手に感謝している。