他愛ない話を延々と

メンタル弱めな30代の果てしない戯言です

相手を変えたい欲求

あることで他人から指摘を受けた。

その時自分が感じた感情は、「恥」に近かったと思う。

その指摘は長年感じてきた自分の強い劣等感への刺激だった。私の人生のここ数年間は、その劣等感を「自分の一部」として受け入れる取り組みそのものだった。だからこそものすごく痛かったし、今すぐそのようにできないことを情けなく思った。

結果としてその劣等感は今、自分を構成する立派な要素のひとつとなっている。とはいえ、ポジティブな事柄に変換されたわけでもないので(私はそんなに強くはない)、おいそれと人には言わないものの、隠すことも自分自身から排除することもしなくなった。

そんなところもあるよね、と自分に言いながら「弱いままひっそり私の中に居ていいんだよ」というゆるしを自分で自分に与えた感じだ。だから恥ずかしくても格好悪くてももうそれが自分なんだなと思い、そんな自分と共存している。

 

自分で自分に自由を与えてあげようという私の取り組みは、自分だけでなく見える世界を完全に自由なものに変えてしまった。まさに人生観が180度転回したと言う感じだ。

私は幼い頃から人に嫌われることを怖れて必死に偽の自分を作って生きてしまった。

その結果、かなり早期に心の病に陥った。

毎日が自分と他人への嘘の連続な気がしたし、生きることがとても苦痛だった。

そんな風にしか生きられない自分を見破られることが何より怖かった。

世界は基本的に信じられない危険な場所だと思い込んでいたし、そもそも自分の感情や感覚すら疑っていた。

 

何を言えば相手の気分を害さないかとか、どの行動をすれば他人が喜ぶかしか考えなかったので、いつしか自分の気持ちを感じることができなくなっていたので「これさえすれば間違いない!』というだれかすごい人のお墨付き人生の教科書が欲しくて仕方なかったのだ。

自分の軸がなくなって、完全に他人目線のロボットのような人間として生きていた。

 

自分という人間を取り戻すことはたいへんである。

「人に好かれるため」の自分の考えを根本的に見直して、「自分が好きで、楽で、心地いい」を基準とした考えを自分で選ぶというプロセスをいちから何もかも選び直していくのだ。これがなかなかに難しい。これを読んでくださっている方も一度、今日一日のご自身の行動が「他人のため」でなかったかどうか振り返っていただきたい。「自分のため」の行動だったことの方が少なかった、あるいは全くなかったという方の方が多いのではないだろうか。

「だってそうしないと社会ではやっていけないでしょ」と思われた方もいらっしゃるかもしれない。結論を言うと今の私はそんなことはないと思っている。

 

考えの軸を「自分のため」に移す作業を数年間かけて筋トレのように行ったので(それも楽しみながらである)、基本的に今は「今の自分がベストだ」と思って生きている。

どんなにやる気がなく惰性な日でも、どんなにずぼらでダメ人間でも「それが自分という人」なのだ。外見的要素も内面的要素もすべて「自分」として自分の中に一旦「居ること」をゆるす。「受け容れる」という作業だ。

心地よくない感情も、「なんでこんなところから毛が生えるのか…。」みたいなくだらない悩みも全部、とにかく全部である。だれかが思う「良い状態」に無理に変化することはやめたのだ。

 

世の中には「これが正解」と言われる基準がたくさんあって、美の基準であったり社会的観念であったり、正義感や価値観であったり内容は多種さまざまだ。

街を歩けば「あなたはもっと良く変われる」という内容の美容業界の広告、ビジネス書、自己啓発本、そしてSNS。みんながより良い方向に向かおうとして「正解」が何かを示している。

そしてみんなが一斉にそれに向かって競争しているように思えることがある。

「正解」の範疇から飛び出た何かは「良くないもの」として見られてしまう。

私は割と変わった人生を生きてきてしまったので、自分の考え方が一風変わっていることを色んな場面で認めなければならなかった。人と考えることがずれていることが結構あるのだ。多くの場合それらは恥ずかしさを伴ったし、悔しさや怒り、社会へ罪悪感にもつながった。

でも今はそんな自分を隠すために自分で自分を偽ることはもうしない。かといってオープンにひけらかすこともしない。必要だなと思ったときには相手に説明するが、それ以外はふんわりと「その自分」でいるだけだ。余分な力は使わない。それだけだな、と思う。

私はこのままで私なのだ。誰かの思う正解や基準に向かって自分を無理やり変えようとすることがどんなに苦しいか、身を以て知っている。

「これが丸ごと私なのだ。そういう風にできている」と思う訓練を頑張ってきたのだ。結果として今、こんな自分がいるなという感じ。だから自分に、そこはかとない自信がある。

 

ここで最近思うことなのだが、自分に自信が持てなかった期間は私を「いいんだよ、それがあなただよ」と応援してくれた人が、私が本当の意味で自信を持って「これが私だ!」と言うようになると途端に態度が変わることが結構ある。

「でもさ、もうちょっとそこは人に合わせる努力をしなくちゃいけないんじゃない?」

「女性らしくいると言うことは…」「綺麗でいるためにはさ…」

「もっと人生に目標を持って」

などと言われることが多くなった。正直言って大きなお世話、はた迷惑、アドバイスという名のクソバイスなので悪霊退散という心境である。

私がそのようになりたいと思ったときにはそうするだろう。今は、まずこの時点の自分を認めている最中なのだ。私だって強くない。本当は完璧に理想的な自分を未だに追い求めたりしているのだ。できないからこそ今の自分から認めようと努力してるんだろ、ほっといてくれよ。なんて思う。要は反発してしまうのだ。

 

このように相手を変えようとする行為はかなり暴力性のあるものだと思っている。

暴力を受けた側は必死になって相手からの攻撃に備えて防衛したり反発したりする。

そして私もまた、変えようとしてくる相手を変えたいと思っている。相手が私を変えようとするその考えそのものを「良くないもの」と捉えて変えようとしているのだ。

これでは正義感を履き違えた怖れの綱引きになってしまう。何よりこころが平和でない。

 

相手を変えようとしないこと。

それは「私と相手は違うのだ」とお互いに認め合って、そこに共存し続けるということだ。

一人として同じ人間はいない。同じような考えの人と気が合ってやっていけることもあると思う。それでも絶対に違う人間なのだ。その上で「わかり合おう」とする姿勢を見せながら相手と同じ空間でなんとかやっていくことは可能だと信じている。私たち人間には智恵と言葉と、何より思いやりがあるのだから。

世の中の揉め事はほとんどこの手の「相手を変えたい欲求問題」でできていると思う。

「自分の思い通りの相手であって欲しい。だから相手を自分の思う理想の人物に変えたい。」とか「相手の思う通りの自分にはなれたものの、自分らしくなくてとても苦しい。私は被害者だ。」とか。

そして、「私は被害者なんだから加害者である相手がこうすべきだ」とかそういった攻撃的な正義感も含めて、相手への変化を強要する考え方だ。

戦争なんてみんな自分が正しいと信じてやってるのだから恐ろしいもんだな、と思う。

でも実はその考えは戦争でなくても日常の中にコミュニケーションとして当たり前にあって、とても身近な人とも簡単に行っている人が多いのだ。私も含めて。

私ひとりは、その考えを手放すことを決意した。とても難しいことだけど。

だからひとまず、「今ここの自分を変えないこと」から初めている。

このままの自分で、欠点も含めたこの私で、私は私なのだ。

しっかり自分の気持ちを感じきらなくてはいけない。向き合いたくない弱さも、恥ずかしいコンプレックスも、逃げ癖も、依存的なところも、自分本位でわがままなところもぜんぶ。

見ないふりをしてしまっても、それも自分。その時はどうしても向き合うことが怖かったんだよね、と思うだけ。

 

そうしているとその奥にある「自分はどうありたいのか」をしっかり見つめることができるようになってくる。自然に「なりたい自分」に変化することを自分が求め始める。こころが喜んで変化することを取り入れる感じだ。

誰かに不安を煽られた、怖れからくるタイプの変化ではなく、自分のこころが、からだが、一番いい状態でいるための自然な変化だ。化粧やおしゃれをしてもウキウキしてくるし、買い物をしても楽しいし、人との会話も弾む。ごはんも美味しくて、こころにエネルギーが湧いて音楽や景色に感動なんかしちゃって趣味がもっと楽しくなる。

もっともっと楽しいことがしたくなって、お金が欲しくなって、仕事にやりがいが出てきて大切な人に何かプレゼントしたい気持ちになる。それが物じゃなくても、気持ちでも。

 

変化はこんなふうに自然に起こるものだと思う。

相手を変えようとしてはいけないなと思いながら、それでも変えたい自分のこともちゃんと認める時間も必要だ。私だって人間だから世の中全部思い通りになって欲しい。

でもそんな自分を認めたからこそ、自分に立ち返ることができると思うのだ。

一回しかない人生、どう生きたい?どんな自分でありたい?

私は、自分に一番優しい自分でいたい。その上で、人とも世界とも仲良く楽しくやっていきたい。

 

ここ数週間の中で他人から受けた指摘は、人生の中でもダントツに凹む種類のやつだった。

私の生き方やスタイルに関わってくるような、それをしていないと人としてダメなんじゃないかと個人的に思わされるような種類のものだ。変化を強要されたように感じて怖かった。

でもそのことについて本当によく考えた。結果、私は変わろうかなと思った。

相手に言われたからじゃない。相手からの指摘は確かに変化するきっかけにはなったけれど、自分が自分に自信をもって生きていくために、自分の意思で、自分のために変わろうと思った。

そう思えば自分らしさを保ったまま、変わるきっかけをくれた相手に感謝すらできると思った。

 

今の私は、とりあえずこれでいい。

相手ありきじゃない「自分の人生」をもっと積極的に生きて生きたい。

私はそんな風に生きるともう決めたのだ。だからやっぱり、これでいい。