Netflixで「アデル、ブルーは熱い色」を観た。この作品については熱いファンがたくさんいるだろうと思う。
私もまた、嫌気がさしながらも、それを含めた強い魅力に惹かれてやまず何度も観てしまう映画だ。
あらすじについてはもうすでに触れている方がごまんといると思うので割愛するが、何よりアデルとエマの肌が良い。なんというか、とにかく健康な肌だ。
これが女性のみずみずしい肌だ、という理想的な肌だと思う。
艶というか質というか、一番生身の体が光る撮影に拘ってるなと思ってしまう。
メイク担当もおらずメイクアップをあまりされなかったとキャスト本人たちが言っているので、とにかくリアルを追求したという監督の熱意は本当に強かったのだろう。
様々な立場からの是非の声はさておき。
とにかく私の視線と脳は序盤から主役二人の肌に吸い込まれていた。
エマと出会った瞬間のすれ違いのあの名場面は何度も再生して二人の目線を追って一緒にドキドキしてしまうし、エマがアデルをアパートから追い出すシーンはこんなにも人間は醜く、汚く、ぐちゃぐちゃになるんだと胸が痛くなる。
言わずもがなだが、7分間に及ぶ写実的な性行為シーンはそこだけ抜き取って観ても芸術的だなと思いつつ、あまりに夢のようでファンタジックな描写だなとも思う。
絵画を音声付きで鑑賞するような。
やはりエロというよりあれは完成された映画のシーンであり、芸術だ。
そう言っておきながら矛盾するようだが、エマの二重幅が最高にエロいと思う。
あの目つきがエロい。あれはやられる。そしてアデルとバーで出会った時の振る舞いが最高に惚れる。
あれはドキドキする。
アデルの二重にはどの瞬間にも欲を感じる。足りない足りないと何かを欲する目だ。
とにかく何かに飢えてる感じと言うか、いつも貪るように何かを食べてるからか髪を束ねる様子もほどいてかきあげる仕草も合間って、なんだか毛足がロングの犬のようだなと思う。
不快感を感じるほどアデルの食事シーンもアデルの本能の剥き出し感というか、もうとにかく人間の汚い欲求を余すところなく表現している凄さがあると思う。
食べ方にエロさは現れる。それは本当だと思う。アデルはとにかく貪欲なんだと思う。
食にもエロにも、そしてそれを自分で埋められないことへの埋め合わせの仕方も。
アデルとエマが同棲を始めてからエマが芸術表現に没頭しアデルを顧みなくなった頃、ピカソの青の時代が終わったかのようにエマの髪の色も既に青色ではなくなり、赤のトーンに近い金色になっている。バーでアデルとエマが出会った時、アデルが唯一知っている画家は「ピカソ」だった。
対照的にアデルはエマを失ってから青色のものを身につけたり、または青い海に浮かんだりと自分を丸ごと愛してくれていた頃のエマに対する執着がエグいくらいに描写される。
エマの個展に出席した時の青のドレスなんてとにかく胸が痛い。
アデルとエマは戻れない仲となるが、だからこそなんだか良いのだろう。ああ、こんな時ありきたりな感想しか言えない自分の語彙力に脱力してしまう。
多分、体で溶け合うように愛し合える仲というのは奇跡的に存在するのだろうな。
相手のすべてを味わいたくて、本当に体温ごと溶け合っていくような、体の境界線がなくなってしまうような、そんな体験をできる相手はもしかしたら不意に街中ですれ違うくらいに身近にいるのかもしれない。見つけることはできるのかもしれない。奇跡に近いことだけど、会えばそれでもうわかってしまう何かというか
エマの言うように「人生に偶然なんてない」と言い切れるような相手はきっといるのだろう。
だけど、かなしいけれどその人とは現実的な生活を共にすることは難しくて、体の関係だけでなくお互いに夢も仕事もあって、体以外のことでは解け合えない。交われない。
思考や理性の部分では一緒になることができない。
本能でなら際限なくずっと一緒にいられるのに。一緒じゃなく、確実にひとつになり合えるのに。
映画だけでなく、誰しもそんな相手がいて、そういう間柄の人とはもしかしたらみんな、生涯をとおして一緒になることはできないのかもしれない。
とても切なくて身がよじれるくらいに辛いことなのだけど。
漠然とだがそんな風に感じた映画だった。