私の性について。
私が自分の性別に一番初めに疑問を持ったのは、少なくとも幼稚園生の時だったと記憶している。
私は長女として生まれたが、上に兄、下に弟がいて男に囲まれたきょうだいだった。
思えばずっと、私だけがコップの色を選ぶ権利がなかった。私が何も言わなくても決まってピンク色を自分の定位置に置かれていた。
リカちゃん人形に私よりも夢中になっている弟の将来を心配した母は、弟のいない隙に人形を隠してしまった。男の子だからね、と言っていた。
女の子だから、お肉の量は少なめね。お兄ちゃんやお父さんに食べさせてあげないとね。
女の子だから、お兄ちゃんと同じ言葉遣いはいけません。女の子だからこの服装はだめ。
女の子だから、お姉ちゃんだから…。
その言葉が苦しくなったのは、幼稚園からの帰りに電線に止まった二羽の鳩を見た時だった。
"あれは、きっと恋人同士の鳩なんだな。この後結婚したらメスの方の鳩が卵を産まなくちゃいけないんだ。痛いし苦しいし、なんで女がそんなことしなくちゃいけないんだろう。自分は絶対にしたくない。男は産まなくていいなんてずるい。"
その時に、いつか自分に夫となる人が現れてその人の子供を産まなくてはいけないのかと自問したら、途端に絶望感に襲われて人生から逃げたくなったのをはっきりと覚えている。
絶対に、嫌だと思った。
できないと思った。
女として母になり子供を育てるなんて、私には無理だ。私も男のように働いて家に帰ってくるだけがいい。
お母さんみたいに家で子供を育てるだけなんて、絶対に嫌だ。
振り返ってみれば「男のように」とか「母(女)とはこうだ」とか、かなりツッコミどころ満載の古いジェンダーロールなのだが、幼稚園生にしては割とはっきりした拒否感だなと我ながら思う。
それでも家の規範に従い、男性に対して従属的な女であることを頑張った方だ。
数々の疑問はあれど、一時期はいわゆる「王道のモテ」的な自分でいたこともあったと思う。
はっきりしているのは、女性として持った肉体的な役割を出産、育児に使う気が起こらないことだ。体力的にも気力的にも、子供を産むことで得られるメリットがデメリットを上回ると感じられない。
子供を育てるよりも勉強がしたい。一人でじっくり何かを考えていたい。
今の私は、正直なところ自分を多くの人の前で言葉にして「こうだ」と断定して表現ができない。文章で少しばかり表現できるようになってきたかな、とは思うけれど。
少なくとも心の内では自分の性的指向を、いわゆる「パンセクシャル」というやつなんだなーくらいに認識している。
性別で人を好きになるというよりか、人として見るので結果的にそれが男性だったり女性だったり、性別違和のある人だったりするだけの話なのだ。
でも、時々まだ何かを気にしている。これを読んだ誰かが私を特定した時のことを想像するとなんとなく、どう思われるのかな、とやっぱり不安に思う節があって、少々もやもやする。
きっと中には時代が解決していってくれることもあるだろう。
なんとなく、こんな感じでいようと思う。
自分がしっくりくるところがきっとおさまるところなんだろうな。
こんな自分の状態を以前はかなり気に病んでいたのだが、最近はごく親しい人との間なら少し堂々としていられるようになった。
男性も女性も好きになれるし、性別違和のある人も好きになれるなんて、私の性は可能性に満ちている。
でも、これを書いている間も投稿するときのことを思ってやっぱりとても緊張している。
「公開する」というボタンを押せるかなぁ…と思って書いている。
ま、物事を自分の捉えたいように捉えて、曖昧にでもいいから漠然と幸せでいられたら、それでいいのかなーなんて思った。
ポチッとしてしまいましょう。
生きててよかった。パート2。
前回からの続きです。長くなったので分けました。
その中で一般的に、多分…ですが「すごい」と言われる、時々バズったり(?)するような、「ああこれが本質なんだな」と思うことをツイッターで呟かれる方たちだけをPCのタブに残しておいて、一日の決まった時間にリロードボタンを押し最新のつぶやきを見る、という方式をとっていました。
そうすることでネット特有の「あれもこれもどうぞ、興味あるでしょ」攻撃の情報量に圧倒されずに済んだから。
そういう方たちの「これは!」と思うツイートなどは、後からスマホで見てスクショし、なんども見返してお守りにしていました。
その中で今でも覚えているツイートがあります。
全文をそのままコピーはできないけど(流石に暗唱もしていないので笑)、ニュアンスになりますが
「毎日がつらい、もう頑張れないと思う中であなたが発したその言葉が、あなたのその経験が、支援者にとっての気づきになり、経験になる。そしてその経験がまた他の支援される誰かへの明日へつながっていく。」
みたいなものでした。すんごくうろ覚えです。ごめんなさい。
その方はもっと素晴らしい文章で書かれていたと思います。
それを読んだ時とても感動してしまって、しばらく打ちのめされたことを覚えています。
そのあとに涙が出たことも、はっきり覚えています。
私が苦しいと思ってこの思いを伝えることは、もしかしたら誰かの経験になっている「かも」しれないんだ。名前も知らない誰かの、何か一部になっている「かも」しれないんだ。
生きていくことの意味を必死に探してしまうこともあるけど、可能性はある「かも」しれないんだ。かもしれない、だけど。でも、可能性だもん。
今生きている私のこの経験こそが生きる意味であり、誰かにとっての必要不可欠にもなるの「かも」しれないなんて、多少厚かましくもありますがそんな風に思えた、最初の瞬間でした(その割りにはツイッター文うろ覚えすぎるだろ、というツッコミはさておき…)。
私が生きて、ここにいることには必ず何かの意味がある。
生きることは、私が必死に救いを求めた先のタブの上でリロードされたその瞬間、目にしたそのツイートのように、
いつかの私と今の私がつながっていること、誰かの発した一言と今が確実につながってるよとしっかり証明していくことの連続なのかも。
そして、それがまたこの先の未来に見えない何かでつながっていくことを証明していくことでもあるというか…。
うまく言えませんが、こうして「生きていてよかったな」と思える瞬間を確実に受け取っているのだから、生きることは私が誰かに感謝することの中にもあるとも思ったのです。
その感謝が本人に届くかどうかはわからないけど、こうして心に大事に持っていることで、私自身が今日もがんばろうって生きていくことができる。
もうそれだけでも充分な気もするのです。
できれば直接届けたいなとも思います。感謝って、持っていても気持ちがいいけれど、お届けするともっと気持ちがよくなるから。
誰かを批判的に見るよりも、ありがとうで人生をつなげていく方が絶対にあたたかい。
ありがとうって本当に幸せな言葉だと思うのです。
ここ三日くらい鬱が酷く、腐った野菜の芯になったような気分でした。
誰かからのたった一つの通知でこんなに幸せになれる自分って、幸福だなと思います。
どんな形であれ、私に関わってくれる方、これを読んでくださる方、本当にありがとうございます。
生きていて、本当によかった。
あんまり嬉しくって、また長文を書き連ねてしまいました。
今夜はとても浮かれています。ただただ、嬉しいです。
何度でも言おう。生きていて、本当によかった。
生きててよかった。
たった今、テンションがやたら高いのでそれに任せて書こうと思います。
今夜も脈絡なく思ったことを書いていく、このスタイルです。
何が起こったかはまぁ読んでいけばだいたいわかると思うんですがその前にまず、
私ってインターネット恐怖症なんです。唐突ですけど。
怖いんですねやたらと。ビビリだし人見知りなので、顔も見えないのに「これは何か距離感を間違ってしまってないかしら」とか「うーんこれにいいねとか押すのはどうなの」などぐるぐる考えてしまって結局変なところに「いいね」だけ押して謎に去る、みたいなことをやりがちです。
そういうことをされた覚えのある方いらっしゃいましたら、
なんか、ほんと、すいません。
ネットも対面も、距離感って時としてとても難しいんですよね。
でもそんな私でも誰かに反応をもらえるというのはとっってもうれしいことなのです。
なにせ自分自身のログイン通知にすら、「!!」なんて目を輝かせちゃうくらいの人ですから(自分がログインしたの!?通知でお知らせきた!すごい!的な)、
他人からの通知なんてもう天にも登る気持ちで一日をるんるん過ごしちゃうレベルです。
嘘じゃないですよ。
こんな世界の片隅でたわ言ばかり垂れ流しているブログ(あるいはツイッターだけでも)が誰かの目に一瞬でも止まってるかもしれないのか…と、それだけでもう。心踊ります。ジャンルは阿波踊りです。
生きていて何か思いを形にすると、誰かは見てくれてるのかもしれない、それだけでやっぱりうれしいのです。
だからと言ってそれを目的に生きる、つまり承認欲求に突き動かされて生きる、ということにはならないように生きようと思うし、多分それはもう大丈夫なのですが、何かしら他者からの反応があるということはやっぱり心の糧になります。
数年前、複雑性PTSDの症状にともなって、摂食障害の症状と様々なことに過敏になる症状がマックスに出て世界と自分が断絶したかのような日々を送っていた時期がありました。
もう地獄のような日々で、世界がとても怖いところのように感じていました。
人の言葉がとても怖くて仕方なくて、非難の飛び交うネットなどはもう論外。
なので一日に2時間だけ、午前と午後に時間を決めてスマホに触れていました。
ネットを禁じていたのではなく、恐怖でできなかったのです。それは今も完全に克服できていません。情報過多が苦手というか、圧倒されてしまうのです。克服する必要もないかなと思っています。
だからうちにはテレビもありません。視覚からの情報が多いと脳がすぐにキャパオーバーするので、今も主にラジオで聴覚から世の中の動きを知っています。
というわけで、とてもつらい時は2時間だけネットに触れるという「受動的」な時間を自分に与えることをしていました。受動的に自分が情報を得たい先はだいたい、方向性が似たような人や事柄に隔たってしまうことも承知していましたが、それでよかったのです。
怖いこと、キツイ言葉、誰かを激しく非難する顔の見えない人からの暴力からはとにかく遠ざかりたかった。
長いのでパート2に続きます。
感覚で健康になる
心がささくれ立っているときに、音楽に癒されることがよくあります。
その時そのときで選ぶ曲は違うのだけど、その時に合ったタイミングで響く曲調や歌詞があって、そのたびに心が震えて目頭が熱くなるような。
五感を使った癒しってメンタルが弱ってるときに本当に重要だなぁと思っています。
私の場合、その時に合った音楽を聴いて入り込むと、それまで凝っていた肩の痛みなどの感覚もスーっと楽になるのです。
体がゆったりして血行が良くなって、全身にいい影響があるんでしょうね。
私はとても血の巡りが悪い方だと思っています。
隔たった食生活をしてるから当然なのですが。
血行を良くするためにあれこれ試してみて、逆に良くなりすぎて交感神経優位になってしまい、カッカして眠れなくなることも。
何事もバランスですな。と思いながらやりすぎないように、できる時は呼吸から意識したりしています。
それはそれで悪いことではないのですが、私の場合すぐに眠くなって生活リズムが狂ってしまうことや各種副作用がデメリットでした。
今はなるべく自然なもの、特に音楽とかストレッチとか入浴、香りに由来するものなど、
その時自分が楽しめそうなものから取り入れています。
できればそこに「良い食事」も含みたいところですが、まだ難しそうなのでできそうなところから。
あとは人おしゃべりすることですね。
おしゃべりってとても大事だと思います。
私の周りで健康に気を使っている人は漏れなく「おしゃべり」を楽しもうとしている感じがあります。健康と書きましたが精神的なものだけでなく、体の健康オタクの人も、おしゃべりの時間を本当に楽しんでたくさん持っているのです。
気持ちを言葉にして話す、というのは自分の体から離す、ということですよね。
その離れて形になった言葉が相手の元へ届く、その届いたものから感じられた気持ちを、相手がまた言葉という形にして体の中から離し、私に届けてくれるわけですよね。
このブログもその一つなのかもしれません。
つまるところ、自分のためにやっているわけなんですよね、きっと。
こんな文章を読んでくださる方がいることはとてもうれしいことです。
今日、癒された音楽は日本語を大切にした歌詞でした。
一つの音符に、ひとつの句が乗るような日本語ののびのびとした特徴のある曲です。
透き通る綺麗な歌声も相まってとても情緒的でした。
テンポのいい洋楽やはやりの曲もいいですが、和語を大切にした曲を聴くと「日本人でよかったなぁ」って思えます。
どこまでも伸びやかな歌声みたいに自分の未来も遠く遠くに伸びていくような、
明るい希望を持っていたいです。
なんか今、すごく歌詞的なことを言ったな!
ちょっと恥ずかしいですが、本当のこと。
「とにかく死にたい」から脱却いたしました。
どうも。死にたかった女です。生きてます。
数日間、死んでおりました。気力が。
本日、鬱から少し回復傾向です。
過食もしました。ひたすらイライラして寝込んだり、グダグダネット徘徊したり。
その廃人っぷりにまたイライラして、また過食して、のループです。
Google検索は「死にたい 鬱」「死にたい どうやって」みたいなのが連なっていて我ながらお恥ずかしい限りです。
とにかく死にたいしか感情がなくなるんですよね。
気力が湧かず、言葉にする力も底を尽きていた感じがありました。
今は幸い、オンラインで気持ちを吐き出せる場が世の中に充実していますから、できる時はもうそういったものはフル活用させていただきました。
これを読んでいる方で鬱でだれかとお話したい方、ただひたすら話してスッキリするだけでもいいという方、数打ちゃ当たる戦法で色々あたってみると割と良い場が見つかるかもしれません。
無料でやってらっしゃる方も結構いますね。
昔(インターネット創世記的な、ピーヒョロロロrガーッの時代です)は、アンダーグラウンドな世界しかなくてややもすればかなり怪しげなサイトに入り浸り、テレホタイムまで待ってチャットサイトにアクセスしていたものです。
そんな私が今やSNSは苦手、Twitterも最近始めたばかりみたいなアナログな人間となり、
ニュースは主にネットかラジオからみたいな生活を送るとは思ってもみませんでした。
複雑性PTSDを患ってガヤガヤした雰囲気や音、テレビのバラエティ的なBGMノイズ、ブルーライトなどがとてもつらくなったのです。
音や光に過敏になりました。
クラクションやサイレン、大きな物音にも過剰に驚いてしまうところがあります。
最近はそういった過剰に反応する症状が少し治まってきたのか、こうしてPCに文面を打ったりスマホを眺めたりもできるようになってきました。
地道に治療を受けてきて効果が出ているのでしょう。本気出して治したいと覚悟を決めてから軽く7年かかりました。
それまではただメンクリに行って薬もらって終了みたいな生活だったので、曖昧に苦しいだけでしたね…がんばってきて良かった。
数日間メンがヘラりすぎてヤバかったのですが、本日持ち直してきたなーと思ったら一気に上がり、筋トレとスクワットしながらさっきまでNetflixで愛の不時着を観ていた始末であります。割とそこはゲンキンですよね。
セリちゃん可愛い!可愛いよぉー!!
ちなみに私は、愛の不時着はジェンダーの観点から観ると本当に興味深いなーと思っております。
こんな風に、当たり前のことを当たり前に楽しめる贅沢を噛み締めています。
鬱から這い上がってきたところだから尚更、感謝したいな。
一歩一歩です。
前に進む一歩もあれば、後退する一歩も。
そして、立ち止まる一歩も含まれることを忘れてはいけないと思いました。
大切なのは、踏み出せたかどうかじゃない。
踏み出そうとした、その一歩が大切なのだと思います。
数日間、立ち止まっていたけれど、私のプロセスは確実に進んでいました。
今日につながったのだから、万事オッケーです。
これでいいのだと思っています。
また少し、がんばりたいことをがんばれたらいいな。
嫌だと言えない
こんばんは、どうも。嫌だと言えない私です。
ここ最近の私の自己紹介は概ねそれで済んでしまうほど「ザ・断れない人間」です。
この土日も断れないことばかりでした。
特に食事が絡む人付き合いの問題は私にとって死活問題です。
私はごくごく親しい間柄の人、数名にしか自分の病気の話の深いところの話をしていません。
形式上、「複雑性PTSDと摂食障害という病気があります」とは伝えますが、その根幹のところにある「自分の意見を言いにくく、断りづらいタイプです。少しずつ本音を言えるようにはなってきたものの、まだまだ言えない人間です。」
というところを伝えられません。
病名を言うよりもそっちを伝えた方が早いなと思う場合にはそう伝えてるのですが、
なにせ嫌なことを嫌だと本当にずっと言わないでやり過ごしてきた人生のため自分がいつ嫌だと思っているかにさえ気づけないことが多いのです。
そのため、後になって「あれ実は嫌だったよなぁ」と思い出すのですがその時には時すでにお寿司、いや遅しでタイミングを完璧に失い、何が嫌だったのか相手に伝わらないまままた同じことを繰り返されてずっと我慢する羽目になるのです。
そんな日は過食したい衝動がかなり高くなります。
今回は私が摂食障害の症状があると知っている人が相手でしたが、その方のペースで食事の時間、メニューもどんどん進んでしまった挙句、最後にスイーツやなんやかんやを色々頂いてしまって断るに断れず、持ち帰ってしまったという流れです。
あぁ、言い出せないこの感じ…。
そして、スイーツなんかもらって家に一人でいたら食べずにおられるかーいという感じですよね。一気に全部食べるに決まってるのです。
夕飯も割とがっつり食べたのにそのスイーツをきっかけにワッと食べたくなりアイス、コンビニスイーツ、ナッツなどグダグダと食べてしまいました。
吐かないと完全にダメなタイプのやつです…。
でもここまできて今度は吐くことが面倒すぎて、非嘔吐でいこう、もう太っちゃってもどうでもいい…みたいな気持ちと、
いやあとで後悔するから吐いておこう…みたいなグルグルした考えが止まりません。
*****
ここまで書いていたのですが、割と色々過食した上で一旦大きな決意をし、これを書き終わりにきました。
ああ、怖い怖い怖い。どんどん吸収されている。
吐くことを少しでも辞めたくて、これを書いても吐くのならもう仕方がないと思っています。
大切なのは、今、何が私をこうして苦しめているのかをよく知って、自分だけでなく人がそれを知るんだと思えるような表現で文章にしてみることだと思ったのです。
私の弱点は、嫌だと言えないこと。
どんなに嫌でも争いごとをしたくなくて、我慢して時が過ぎるのを待ってしまうこと。
嫌なのに喜んだふりをしてしまうこと。
簡単にすると「自分の気持ちに嘘をつくこと」なんですね。
書いていて「そこか」とわかった気がしました。わかってはいたけど、このように見事に毎回忘れるのです。
何度でも気づけて、毎回新鮮だわーと思えることをもはやラッキーと捉えることにしよう。
それにしても食後のスイーツ後さらに胃の中に収められた大量のヨーグルト、もち食感ロールケーキ、チョコモナカジャンボ、ナッツ(大量)、ハムを吐いてきたいです。
食べた物の内容が小心者に始まり、大胆に過食シフトしたかと思いきやなんとなく「吐く決心」がつかず、またダラダラ小心者に戻っていることが笑えます。
今夜はお腹が重くて苦しいだろうな。
でもよく振り返りをしました。
おつかれさま。
どうなっても、明日は明日だよ。これでいいと思いたい。
グッバイ今日。
自分がしたいことと、しなければいけないことの違いがよくわからなくなってしまう。
これは本当にやりたくてやってるんだっけ?
それとも、義務感が増してきた?
諦めてきたことや投げ出したことの数が多すぎてこの年齢になって、
これはいかんでしょ。まずいでしょと思うのに、うまくいかない。
甘ったれてる。
今度こそへこたれないで自分の力でやってみたいんだ。
私もやってみたいな。
これまでできなかったことが悪いんじゃないのだ。
終わってるな…と思うんだけど、終わってても始まらないので、整理していこうと思います笑。
今日一日はもうとにかく悶々としていた。
ずっと心からガス噴出みたいに文句が飛び出していた。
なんでこんな目に…みたいに被害者意識が強くてずっとイライラしていた。
とりあえず私の過食防止は、自分いじめ防止は、こうやって気持ちを文字に出すこと。
今日の私の中の親友の声は
「これやったら痛いなと思うことなのに、よくがんばったね」
「苦手なことに挑戦しましたね」
「明日のために、きちんとお米と野菜も食べて、ゆっくりお風呂に入ったね」
「今日の気分はこの音楽じゃないなと思って選んだあの曲は思ったより泣けたね。こころがすごく喜んでたよね。鳥肌すごかった。自分にいいこと、いっぱい取り入れたね。ちゃんと気持ち、生きてたじゃん。だから安心して眠ろうね。」
あとは、ちゃんと人に感謝の気持ちを伝えた。自分なりにだったけど、気持ちはたくさん込めた。
がんばった、がんばった。
目に見えて何か進んだわけじゃないけど、それでもあなた私もあなたも今日も本当によくがんばった。
とりあえず一日を終えたじゃないか。
それでいいよ、充分すぎるよ。
とってもお疲れさま。
ありがとう今日。
またね今日。
おやすみ、今日。
みんなががんばった今日。
待ってろ明日!